院長の独り言 2018.07.31
では、
「今宮健太とその仲間たち」、
略名:日田組」 一軍大活躍記念! これが日田組だ!!! この「ゆるさ」と連帯感が持ち味だ!!! 後は、
栗(栗原陵矢)と豪(釜元豪)を待つだけ。 時間の問題!!!!! #院長の独り言


院長の独り言2018.07.29
で、
しばらくぶりの
ホークスの話。 今日のスタメン、
日田祭り! ベンチには、唯斗も俊介もいます。
あとは、栗と豪(釜元)があがれば、
俺のホークス人生はピークになるな。。 正直、みんな、毎年毎年、夏は色々あります。詳しくはお話できませんが。。 まずマッキーこと牧原大成。
育成出身、やっと開花。というか、私の心には、一軍は時間とタイミングだけの状態でした。知り合って3年、ずっと、ラインで冗談話を続けてきたこの夏、予定通りの結果です。 次、翔太。
自らファーム行きを監督に希望した翔太。二軍のピッチングコーチとのマッチングが最高!と本人言ってましたが、そのせいか、早くも一軍復帰。故障者欠員のためとは言え、調整がうまく行ってるからこその一軍復帰。まっ、奴は所謂"ドラ1"。
持ってるんです。何かを。 ドラ1と言えば、我等が健太。
故障しましたが、
過ぎてしまえばなんてこと無し。 あとは、拓也も俊介も順調順調。 最後は、唯斗。
Mr.Closerは、今年は60試合出場だな。。 いずれにせよ、
「日田組」今日の電光掲示板。
最高!


院長の独り言2018.07.18
被災1年。
JR久大線(久留米ー大分線)
全線開通に日田は湧いた。 けど。。。
私たちの医療圏である久大線〜大鶴〜東峰村〜北九州を結ぶ「日田彦山線」は、あの日のまま。
線路は錆び、遮断器は破損したまま。 代行のバスは一日1往復、、1往復ですよ! スーパーもコンビニもなく、高齢者は、遠くから運ばれくる揚げ物ばかりの小さな弁当が頼り。牛乳、豆腐など手に入らない。。 医者をしていて思うのだけど、
治療は大動脈ばかりやっても、結果、また末梢血管が痛む。 大動脈と一緒に抹消の血管がこれ以上痛まないように、何らかの予防措置や血行再建は同時に進行すべきではないかな。。 「日田彦山線」の北九州への山線はもともと赤字路線だけど、でも、その線路脇にはたくさんの人が今も苦しいながら息ずく。
それでも生きてゆく。 再開の見通しは立たない。
その裏には、たくさんの「ため息」が息ずく。 西日本災害の爪跡も深い。
本当に胸が痛む。
加えて、我ら、未だ先の見えない「九州北部水害再建」の話題は
「湯布院号」に沸いて、風化して行くのではないか。。 なんとかしたい


山里の訪問診療2018夏①
梅雨明け。 広域豪雨水害。
去年の我々に然り、
たくさんの人が亡くなり、その数をご親族の数が上回る。
胸か詰まる。 で、 いきなりカウンターパンチ。
気温、36度。今年も容赦ない。
気温が体温を上回る勢い。
灼熱が去年の疲労を身体に思いださせる。 どうなる2018夏。 #山里の訪問診療


山里の訪問診療2018梅雨①
去年とほぼ同じ状況になりつつあります。
時間雨量上がり、発災寸前です。 山頂とりあえず向かってます。 まずは、 薬!
届けます。 #山里の訪問診療


院長の独り言 2018.07.06
九州道麻痺。
今日は、診療所泊まり。
住民の方々は避難続々と避難されています。 特別警報レベル5発令されました。去年と全く同じ日に同じ発災です。 先が見えません。
夜になります。 福岡に住む家族が安全なことだけが救いです。 さあ、夜が来ます。 頑張ります。 #院長の独り言
院長の独り言2018.07.05
九州北部豪雨災害から今日で1年が経過しました。 奇しくも、今日も「あの日」を髣髴する大雨です。 しかし、「もうあんなことは無い」と自分に言い聞かせ、ハンドルを握り、いつもの道を走っています。 東峰村で行われた「追悼式」に出席。
会場には、遺族のご家族、仮設住宅に住まれている方々、今も奔走されている御役人、そして当時、昼夜を共にした懐かしい国交省やメディアの方々が大勢来席されていました。 写真は発災した国道の今と、1年前の写真です。 そう言えば、「報道ステーション」に出たな。。。
小川アナウンサーから電話がかかってくるなんて、びっくり!!!
「よっっしゃ、もっと頑張んなきゃ!!」
と思った自分を振り返ると、
”誉めて、おだてりゃ、男は働く”
と言う典型的なアホさが私のモットーと
褒めるよな反省するよな。。 いずれにせよ、
まだまだです、復興も私も。 また1年頑張ります! #院長の独り言


院長の独り言2018.07.02
父の命日16回目。 父は
一言;「豪快」でした。
常に「楽しいこと」を求めた。
常に「人を笑わせよう」としました。
"人生、
笑ってる時間が長い奴が勝ち"
がモットー。 しかしながら、
性格は繊細で、
医者としては、地味/地道だったと思います。
そして
とことん地元に尽くしました。 地元民のために馬車馬のように働き、自分のために倒れるまで遊ぶ。これは我家の遺伝であり、家訓でもあります。 世の中がどう変ろうとも、
地域密着型医療を貫き、
介護や巨大医療施設経営の誘いにも乗らず、
ひたすら「訪問診療」を愛しました。 医師の「古き良き時代」に、
あえて拡大もせず、媚びることもなく、
同じ場所で、日夜、休日も関係なく、
他の医師の10倍は働き、そして10倍遊んだ。 晩年は肺(腺)癌で入退院を繰り返すものの、
「死ぬ覚悟など皆無」
副作用の危険域限界まで、抗がん剤静注を繰り返した。
イキタイカラ。 16年前、
父が、私に最後に言い残した言葉は、 『親が死ぬくらいでメソメソするな』 亡くなる1.2日前だったと思います。

